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中東医報 第5号(1978)表紙によせて

中京医報

林 卓

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中京東部医師会の活動歴

中東医報 第5号(1978)
表紙によせて
林 卓  

 寺町御池のせまい角を鈎形にまがると、 大浦さんの立派な門構え、それに続く純和風の美術倶楽部、その向うは高いビルはなくて背景は東山。 市役所もたしか丸いドームのドンがあった時代と記憶しますが、とにかく工事が終わったばかりの河原町線のレールの上をそれまで梅鉢製の200型単車と違って、さっそうと走る田中車両製の500型ボギー車の雄姿は電車を見につれてゆけとせがんだ5歳なったばかりの私には全く大きな存在でした。水まき電車がジャバジャバと走ったのもその頃でした。  大正の終から御大典と河原町線は全通し、三年坂あたり朝の散歩から帰る時、あちこちにパンチのあいた乗換券を父の手からもらったのも昭和の初めのころですか。幾星霜、御池通が疎開になり進駐軍のテニスコートを横目に見ながらOFF LIMITSとか、5MPHの横文字が入った600型が走る頃中京東部医師会が誕生したことになります。

 中京東部医師会のあゆみは五十余年に及びます。 戦時中にあった医師会はすべて解散し社団法人京都府医師会が正式に誕生したのは昭和22年です。 ただ、「昭和22年のいつか?」となると以下の三説があります

(1).昭和22年4月に、戦後日本の民主化にあたり当時のGHQが社会的に 指導力の大きい医師の組織的集団、すなわち医師会の民主化に特に力を入れました。 その結果、命により各行政区毎に府医師会支部から離脱して地区医師会を構成し、 独立機関として新生出発することとなり、さらに中京という地域特異性を配慮して 東西に分離し中京東部医師会が誕生しました。
昭和22年4月説

(2).新生中京東部医師会は、昭和22年5月2日に杉山世喜三を会長に選出した。
昭和22年5月説

(3).新生京都府医師会が設立が認可されたのが、昭和22年11月1日でありこの日をもって同時発足しと考える。
昭和22年11月説

以上のように意見が分かれておりますが、昭和21年12月より新生医師会結成準備会が 何回も開かれており、同時に各地区医師会においても新医師会設立の動きが あった事を考えると(3)の意見が最も妥当と思われます。

ともかく、《戦前の半官的団体ではなく、任意設立、任意加入の民主的な団体として 戦後すぐに誕生した。》ということに間違いはありません。

 京都府医師会が新しく生まれ変わったこの年に、中央では新憲法が制定され政治的には戦後の混乱から再起への第一歩を踏出そうとする時期であったが、経済的には混沌たる状態で高進するインフレーションと物資の欠乏は国民1人ひとりの生活を破局に近い状態に追いつめていた。中京東部医師会々員も食糧の確保、医薬品の購入に苦心惨憺した。

 昭和23年末に国立予研の検定合格証紙をはったワクチンでジフテリア注射禍事件がおこり、11月8日最初の患者が中京保健所に届けられた。京都全市で患者606名が出た。入院158名うち死亡68名であった。このため医師会で地区会員を集め公衆衛生委員会が開かれた。中京東部医師会は京都市に抗議の申し入れ書を提出した。

 昭和24年には、医薬分業問題おこった。 7月来日したアメリカ薬剤師協会使節団はGHQに強制医薬分業を含む報告書を出し、サムス准将は9月13日その分業勧告書を厚生省に渡した。これより日本医師会の医薬分業に対する長い苦しい戦いがはじまった。京都府医師会には医薬分業対策委員会が作られ、中京東部医師会の林良材はその委員長となりその「任意医薬分業論」はサムスに府医の陳情書として送られた。これによって林良材は日本一の強制分業反対の論客と折り紙をつけられ、昭和25年5月国会の公聴会に昭和29年6月医薬朗係審議会委員として医師会代表として全国医師の与望を担って大活経した。林良材は毎週水曜日午後39回東上している。繁忙な診療を犠牲にしての東上は大変な辛苦であったと思われる。

昭和26年10月看護学枚が開校した。

 昭和29年(1954)6月全国的に森永乳業の粉乳中毒事件がおこり,診療費は府医の方針により一括製造業者に請求し被害者の救済にあたった。朝鮮戦争休戦後の不況はしれつをきわめ社会保障関係の予算は削減され、社会保険の引きしめもきびしく医薬分業問題も次第に急をつげるにいたった。

 昭和30年2月には、俵墨江、西村喜代子らの努力により京都府医師婦人会が誕生する一方、同4月第14回日本医学会総会が京都で開かれ会員が非常な協力をした。

 昭和34年7月戦後最高の赤痢発生。(患者1093人)

 昭和36年2月19日、政府に対する抗義のため全国一斉休診を行い、全会員は円山音楽堂に集り総決起大会に参加した。又河原町通で「良い国保を作りましよう」というビラをまいた。

 4月1日国民皆保険発足する。

 昭和47年 京都市75才以上の老人に対し現物給付により医療費の無料化を実施する。
 休日急病眼科診療所始まる。

 昭和48年、日本列島は石油ショックの中にいた。そのころようやく全国一斉に70才以上の老人に対する医療費無料化制度が発足した。同9月に中京東部医師会機関誌「中東医報」の創刊号が出版される。

 昭和50年(1975)になり、健康教室準備委員会、胃集検準備委員会が設立され市民健康教室が開催されるようになり、市民の健康維持管理事業がいっそう推進されるようになった。

 昭和51年3月より胃集団検診が始まった。

 昭和52年(1977)7月より中京東部医師会設立30周年記念行事準備委員会を発足させ、記念行事として中東医報設立記念号の発行、物故会員のアルバム作成、設立30周年記念式典並びに祝賀会が開催された。

最近の中京東部医師会の歩み (抜粋)

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